同窓会に参加してきました。
以下の記事の続きとなります。
全体的にはつつがなく進行して、面白い場面も多々ありましたが、1つ気になったのが過去のいじめについての話。
これについて思うところをまとめます。
いじめた側の視点
今回の同窓会にはいじめていた側の人が何人か参加していました。逆にいじめられていた側の人間は1人も顔を出していません。
当時の力関係を考えると、当然の部分はあると思います。
で、いじめていた側の人間ももういい年なのでそれなりにまっとうに生きているようでした。むしろ、学歴がないことによって受ける多くの困難を乗り越えている分、立派な生き方をしているように見えたぐらいです。
学生時代の自分の行いについても、いじめた相手に対して心から申し訳なく思っているようですし、できればこの日の同窓会にも顔を出してほしかったと言っていました。
さて、この考え、いじめられていた側からするとどう映るでしょうか?
いじめられていた側の視点
実は僕の同級生には軽犯罪を起こしてニュースになった人間がいます。彼は学生時代最も過酷にいじめられていた人間の1人でした。
もしかすると、貴重な人格形成の時期にいじめられていたという事実が彼の性格を捻じ曲げてしまったという側面もあるのかもしれません。いじめた側もそのことを気にかけていたようで、彼のことがニュースになった時すぐに連絡を取ったそうです。
確かに、まともな神経をしていればいじめていた側に罪悪感が湧くのが道理だと思います。しかし、いじめられていた側としてはそんな時に気遣われてもどう反応していいか分からないと思うんですよね。下手すれば怒りすら湧くのではないでしょうか。
今現在幸せになっている人間なら、いじめられていた相手に対する感情を上手く処理できる余裕もあるのでしょう。ですが、犯罪を犯してしまうぐらい心にゆとりのない人間にかつてのいじめっ子がかけられる言葉などないのではないかというのが個人的な意見です。
いじめていた側の「許されたいという思い」が浮き彫りになるだけで、そこに良い影響はないように思うんです。
まあ、経緯はどうあれそれが犯罪を犯していい理由にはなりませんけどね。
過去のいじめの謝罪と贖罪
僕自身は基本的にはいじめられっこ側のポジションですが、いじめを行った経験もある人間です。
そこまで過酷ないじめはされなかったので特別恨みのある人間はいませんが、できれば当時のいじめっこたちと顔を合わせたくはないですね。彼らからの謝罪だって欲しくはありません。
一方、僕がいじめていた相手は今友人としてやっています。お互いの結婚式にも招待し合う程度の仲で表面上は特に問題ない関係を築いていますが、実際彼が深いところで何を考えているかまでは分かりません。それこそ彼の中では今でも憎悪の念が渦巻いているのかもしれない。
ここまで偉そうなことを書いておいてなんですが、僕も彼に対して謝罪したい、許されたいという気持ちが確かにあります。
とは言え、それは自己満足。ここまで書いてきたように、してはならないことだと思っています。
おそらく、この先も表面上問題のない関係を続けていくのでしょう。
悲しいですが、いじめによってつけた傷もつけられた傷も、小さくなってはいくもののどこかに残り続けるものなのだと思います。
さいごに
暗い話になりましたが、同窓会は行って良かったです。同郷の仲という繋がりは悪くないものですね。
以上!